同じ本を、別の記事で「概要」としてぎゅっとまとめました。ここではもっとゆっくり、身近な例をはさみながら読みます。長くなるので前後半に分けます。前半は「そもそも言語とは何か」「記号とは何か」。後半で「体系はどう働き、どう変わるか」を扱います。
この本はどういう本か
『一般言語学講義』は、ソシュール本人が書いた本ではありません。彼がジュネーヴ大学で行った3回の講義(1907〜1911年)を聴いた学生たちのノートをもとに、弟子のシャルル・バイイとアルベール・セシュエが没後に再構成し、1916年に出版したものです。だから中身は「講義の再建」であり、そのことは編者自身が序文で断っています。
なぜこの本が重要なのか。それまでの言語研究は「昔の言葉と今の言葉を比べる」「祖先の言語を復元する」といった歴史の研究が中心で、「では言語とはそもそも何なのか」という問いはあまり立てられていませんでした。ソシュールはそこを問い直しました。
まず整理:langage / langue / parole
私たちが「言語」と言うとき、じつはいろいろなものが混ざっています。口や舌の動き、空気の振動、頭の中の意味、社会の習慣、書き言葉……。このごちゃまぜの全体を、ソシュールは langage(ランガージュ=言語活動) と呼びます。これはそのままでは科学の対象になりません。多面的すぎて、まとまりがつかないからです。
そこで彼は、この全体から2つを取り出します。
- langue(ラング=言語体系):ある社会が共有している知識。頭の中の「辞書+文法」のようなもので、共同体のメンバーにはほぼ同じものが入っています。個人が勝手に作ることも変えることもできません。言語学の本当の対象はこれです。
- parole(パロール=発話):その体系を使って、個人がその場で実際に話す行為。一回きりで、自由です。
たとえるなら、langue はサッカーのルールブック、parole は実際の試合での一つ一つのプレーです。ルールは共有されていて個人には変えられない。プレーはその場の判断で無限にありうる。
記号論:ことばは「記号の一種」
langue は「意味を伝える記号の体系」です。だとすれば、文字、手話、交通標識、軍隊の敬礼、儀礼の作法なども同じ仲間だということになります。
ソシュールは、こうした「社会の中の記号」をまとめて研究する学問を 記号論(sémiologie) と名づけ、言語学はその一部門にすぎないと位置づけました。ただし言語は、記号体系の中でいちばん複雑で普遍的なので、記号研究全体のお手本になりうる、とも言います。
ここで大事なのは、ことばを「世界にあるものへの名前リスト」ではなく「体系」として見る、という視点の宣言です。
記号とは何か:2つの面
よくある誤解は「ことば=物につけた名札」というものです。ソシュールはこれを退けます。名札の考え方だと、名前をつける前に「完成した概念」がすでに存在していることになりますが、実際にはそうではありません(この点は後半でくわしく)。
記号は「物」と「名前」の結びつきではなく、概念(signifié=所記) と 音のイメージ(signifiant=能記) の結びつきです。どちらも頭の中にある心的なものです。「音のイメージ」は、実際に鳴っている音そのものではなく、頭の中で“聞こえる”感じのこと。声に出さずに詩を暗唱できるのは、私たちが語を音のイメージとして持っているからです。
この2つの面は、1枚の紙の裏表のようなもの。表(概念)だけを切って裏(音)を残す、ということはできません。
第一の原理:記号は恣意的
〈イヌ〉という概念と「い・ぬ」という音の並びのあいだに、必然的なつながりはありません。だからこそ言語ごとに音が違います——日本語「いぬ」、英語 dog、フランス語 chien、ドイツ語 Hund。
「恣意的」というのは、「話し手が自由に選べる」という意味ではありません(それは次の項の「不変性」と矛盾します)。ここでの意味は「必然的な理由がない・動機づけられていない」です。
- オノマトペは反例では? 「ワンワン」のような音まねの語は、数が少なく、言語で違い(英語は bow-wow)、しかも時代とともに音変化を受けます。体系の中心にはなりません。
- 記号と象徴の違い:天秤=正義、のような象徴には、多少なりとも“自然な結びつき”があります(天秤を戦車に置きかえるわけにはいかない)。恣意的な記号にはそれがありません。
第二の原理:音は一列に並ぶ(線条性)
音のイメージは聴覚的なので、時間の中で一列にしか並べられません。同時に2つの音を出すことはできない。文字に書くと横一列になるのと同じです。地味な原理ですが、後半で出てくる「連鎖の中の関係」の土台になります。
変えられない、なのに変わる(不変性と可変性)
不変性。 ある世代がことばを受け取るとき、それはすでに「先祖から相続した完成品」です。個人はもちろん、社会全体でも「今日から牛を別の音で呼ぼう」と決めることはできません。理由は4つ。
- 恣意的なので、議論のための土俵(“こちらのほうが理にかなっている”という根拠)がない。
- 記号の数が膨大すぎる。
- 体系が複雑すぎて、使っている本人たちがしくみを把握していない。
- 全員が四六時中使っているので、集団的な慣性がとても強い。
ソシュールはこう言います——ことばは「みんなが同意して結んだ契約」ではなく、「文句を言わずに従っているもの」だと。
可変性。 それでも、何世紀もかければことばはゆっくり変わります。そして変化は必ず「概念と音の対応のズレ」として現れます。たとえばラテン語 necare「殺す」は、フランス語 noyer「溺れさせる」になりました。音も意味もずれています。
ポイントは、受け継がれ続けるからこそ、少しずつズレていけるということ。連続と変化は裏表なのです。
ここまでが前半です。後半では、取り出した「体系(langue)」が実際どう働くのか——価値、差異、共時態、統合的関係と連合的関係——そして、その体系がどう変わるのか——音変化、類推、波——を見ていきます。